世界中で大人気のメジャー二刀流のプロ野球選手の大谷翔平さんは、どのような学生時代をすごされたのでしょうか。
大谷翔平選手の学歴(出身小学校・中学・高校・大学)や学生時代のエピソードを調査し紹介します!
大谷翔平のプロフィール
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- 名前 大谷翔平(おおたに しょうへい)
- 生年月日 1994年7月5日(2024年3月現在29歳)
- 出身地 岩手県水沢市(現奥州市)
- 身長 約193cm
- 体重 約95.3㎏
- 所属 MLBのロサンゼルス・ドジャース
- 投球・打席 右投左打
- ポジション 投手・指名打者・外野手
- プロ入り 2012年ドラフト
- 初出場 NPB2013年3月29日・ML2018年3月29日
元社会人野球選手の父(大谷徹)と、国体選手にも選ばれるほどの腕を持つバドミントン選手の母(加代子)との間に3人兄弟の末っ子、二男として生まれました。
兄はトヨタ自動車東日本軟式野球部所属の大谷龍太で、さらに姉がいます。
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幼稚園の頃には水泳教室に通い始めま、2歳年上の先輩と一緒に通い続け、
4年生になる頃には6年生よりも早く泳いでいたと言います。
体を動かすことが大好きでじっとしていられない子だったそうです。
母のバトミントンについていっては、ときにラケットを振るなどしていたそうです。
7歳上の兄の後ろを幼い頃から追いかけるのに必死で、
運動や水泳をするにも兄を追い越してやろうとがんばっていたそうです。
そのために、持ち前の運動神経の良さもあって鍛えられていったのでしょうね。
当時、兄がしていた野球にも興味を持ち始めました。
大谷翔平の学歴まとめ
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- 出身小学校 奥州市立姉体小学校(2001年4月~2007年3月)
- 出身中学校 奥州市立水沢南中学校(2007年4月~2010年3月)
- 出身高校 花巻東高等学校(2010年4月~2014年3月)
- 出身大学 進学せず
大谷翔平の小学校
大谷翔平の出身小学校は?
奥州市立姉体小学校
- 所在地 岩手県奥州市水沢姉体町京原70
小学校3年生から野球を始める
小学校3年生に上がる直前にチーム水沢リトルリーグで野球を始め全国大会にも出場しました。
小学校に入るとすぐに自分も野球がやりたいと言い出したそうです。
水沢リトルのグラウンドに初めて姿を現したのは、小学校2年生の秋の時で、
友人と野外でボール遊びをするぐらいのものだったそうで、
一塁に近いという理由で小学3年生のときに左打者となりグラウンドが雪に覆われる冬に、
すぐそばの工場倉庫で毎日200~300球の打撃練習を続け、雪解けとともにグラウンドに戻ると
本塁打の量産が始まったそうです。
父と初めてグラウンドに行った時に、「ボクもこのチームに入りたい。」と、
この一言で野球を始めることになりました。
小学校5年生にして球速110km/h を岩手県営野球場で記録!
1試合で6回17奪三振の成績を残したこともあります。
一般的には小学校3年生から軟式の少年団に入るのが通常でしたが、
大谷翔平選手は硬式のリトルリーグでやりたいと言い出しました。
7歳上の兄が硬式でやっているのをみていたからでしょうか。
チームの監督は父
大谷翔平選手は、小学校から中学校まで父の指導を受けており、父はチームの監督でした。
大谷翔平選手の父は、硬式で始めることについて発言しています。
小学2年生には硬式ボールは体の負担が大きいかと思ったが、いずれ高校で硬式を使うことを考えると子どものうちから慣らしておくのもありかなと思いました。
そのかわりボクも覚悟を決めてリトルリーグのコーチを志願し、仕事を多少犠牲にしてでも翔平の野球に付き合おうと思いました。
翔平と7つ違いで長男の龍太は小さい頃は地元のスポーツ少年団で野球をやっていました。
中学校でも軟式、当時仕事が忙しく、龍太に対して手取り足取り野球を教えてあげられなかったんです。
キャッチボールもなかなか付き合ってあげることができなかった。
それが心のどこかに引っかかっていて翔平には一生懸命に野球を教えてあげようかなという思いがありました。
大谷翔平選手が本格的に野球を始めてからすぐに、右打ちから左打ちに変更させたそうです。
すると1年もしないうちに左打席でバンバンとボールを遠くへ飛ばすようになっていたそうです。
大谷翔平選手の父も現役時代に右打ちから左打ちに変更したそうで、しかし大谷翔平選手の父は3年かけて
マスターすることができたそうですが、大谷翔平選手の1年間で左打ちを習得し、
飲み込みの早さに父は驚いたそうです。
投げては高速の三振の山、打ってはホームランと無敵の少年だったそうです!
しかし、小学5年生の頃に出場した東北大会では準優勝、小学6年生ではベスト4止まりでした。
この時の悔しさが練習の原動力にもなったそうです。
大谷翔平の中学校
大谷翔平の出身中学校は?
奥州市立水沢南中学校
- 所在地 岩手県奥州市水沢真城大檀39−1
中学時代は一関シニアに所属
中学生時代は、一関リトルシニアに所属し全国大会に出場しました!
大谷翔平選手の少年時代の憧れ選手は、打者では松井秀喜、投手ではダルビッシュ有だったそうです。
チームの監督の父の発言によると、
中学1年生の時点ではすでに社会人でもできないような技術をマスターしていたので、その時にはすでにあまり教えることがなかったんです。
当時、対戦した他のチームの監督の大谷翔平選手の中学時代の時の感想はこちらです。
話には聞いていたが間違いなく絶対にプロ野球選手になると思った。
技術的にもう完璧、ありのまま、足は速いし出たら走るし、3打数3安打で5盗塁くらいされたんじゃないか。
今と同じ、打って走って投げて、スピードも130キロ後半くらい出てたんじゃないか。
当時の中学生日本代表のピッチャーを軽々打っていました。
中学卒業してプロに入れるんじゃないかと思いました。
と最後は冗談交じりに語っています。
中学時代も両親が支えた
中学に入って一関シニアに所属したときも、父はコーチを志願して一関シニアのコーチに就任しました。
練習は、週4回の水木土日でした。
一関シニアの練習場は、自宅から片道40分ほどかかったそうです。
母も土日は仕事を終えると2歳年上の姉を連れて毎回グラウンドに足を運んだそうです。
中学校を卒業する頃には、身長が186cmになっていました!
大谷翔平選手が小学校3年生から中学校を卒業するまで父と続けた野球ノートというものをされていました。
大谷翔平選手と父と野球について真剣に言葉を交わすためのノートだったそうです。
大谷翔平選手はじこのノートに、良かったこと・悪かったこと・これからの目標を記入していました。
それに対して父がアドバイスや激励を書いていくというノートです。
- 大きな声を出して元気よくプレーすること
- キャッチボールを一生懸命に練習すること
- 一生懸命に走ること
この3つを守ってプレーすることが野球における基礎基本だと父は大谷翔平選手に何度も教え続けたそうです。
大谷翔平の高校
大谷翔平の出身高校は?
花巻東高等学校
- 所在地 岩手県花巻市松園町55−1
- 偏差値 特別進学49 スポーツ45 進学42
- 私立共学
大谷翔平選手が花巻東高等学校を選んだ理由は、菊池雄生選手らが甲子園で優勝できなかったことが決め手となった
そうです。
花巻東高等学校の野球の監督の佐々木監督は、
ロジカルで人間関係に主眼を置いており高校野球界でも一目置かれている優秀な監督です。
佐々木監督は大谷翔平選手に技術だけでなくさまざまな考え方や人間性について指導したそうです。
- 2011年8月 第93回全国高校野球選手権(夏の甲子園)出場
- 2012年3月 第84回選抜高校野球大会(春の甲子園)出場
- 2012年3月 第94回全国高等学校野球選手権岩手大会準決勝「高校生最速160㎞/hを記録」
高校3年間は野球部の寮で寮生活をしていました。
当時はテレビはあまり観ず、ゲームも一切していませんでした。
1年生の秋までは体力づくりを優先し投手としてまだ立っていませんでしたが、
1年生の秋から投手としても出場すると、エースにいきなりなっています。
高校2年生では最速151kmを出しました。「みちのくのダルビッシュ」と呼ばれるように。
高校2年生の時に股関節を故障し、夏の甲子園ではなかなか思うようにはいきませんでした。
股関節の故障が完治した高校3年生の夏の岩手大会で最速160kmを出し、注目されました!
高校時代は野球に専念しており、彼女は作らなかったそうです。
日本ハムに入団
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日本のプロ野球チームには進まないと断言していたのですが、
北海道日本ファイターズの栗山英樹監督は、大谷翔平選手に何度も交渉しにいきました。
「一緒に二刀流の歴史を作ろう、誰も歩いたことのない道を歩いてほしい」
大谷翔平選手は、プレゼンを何度もきいているうちに気が変わっていき、アメリカのチームに入る前に
日本ハムに入団を決めたそうです。
日本ハムに入団を決めたそのが、創造を絶するOBたちの批判が待ち受けていたそうです。
大谷翔平選手の二刀流挑戦に対してです。前例がなかっただけにOBたちが受け入れがたかったのでしょうね。
プロ入り後は、二刀流で活躍し球界の常識を覆しました!
2016年 22歳の時に日本プロ野球最速の165kmを記録しています。
2017年 23歳 MLBロサンゼルス・エンゼルスに移籍
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MLBでも二刀流で活躍しています。
2018年の24歳の時には、MLB新人賞を獲得しました。
2021年の27歳の時には、投手として9勝を挙げ、打者としては46本塁打・100打点を記録しました。
タイム誌の「世界で最も影響のある100人」でトップ扱いでした。
これからのさらなる活躍に楽しみにしています!
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