桐島聡さんは1970年代に起きた連続企業爆破事件の一つに関わったとして、全国で指名手配されていた
「東アジア反日武装戦線」のメンバーです。
2024年1月25日、自らが桐島であると名乗り出て、神奈川県鎌倉市の病院で身柄を拘束され、
世間では、注目されています。
桐島聡さんは、どのような方なのか今回は学歴を調査しエピソードを交えながら紹介します!
桐島聡のプロフィール
- 名前 桐島聡(きりしま さとし)
- 生年月日 1954年1月9日
- 年齢 70歳
- 出身地 広島県深安郡神辺町(現在は福山市)
東アジア反日武装戦線のメンバーの中で、前科がないただ一人の人物でもありました。
ぱっと見で芸能人の宮川大輔さんや氷川きよしさんにめちゃくちゃ似てると思います!
潜伏中の顔画像
現在70歳の姿の情報によりますと、ガリガリでやせ細っているそうです。
桐島聡の学歴まとめ
- 出身小学校・中学校 特定できませんでしたが、地元広島県内に通学していたと推測
- 出身高校 広島県立尾道北高等学校
- 出身大学 明治学院大学 法学部
桐島聡の小学校・中学校
特定できませんでしたが、地元広島県内に通学していたと推測します。
桐島聡の高校
桐島聡の出身高校は?
広島県立尾道北高等学校
- 1925年 旧制中学校(男子校)として開校
- 現在は男女共学の単位制高等学校
- 偏差値 64
桐島聡さんは、1972年に卒業しました。
桐島聡の大学
桐島聡の出身大学は?
明治学院大学 法学部
- 1863年創立
- 私立大学
- 偏差値 60~62.5
高校卒業後の1972年4月に入学
桐島聡さんは、高校卒業後の1972年4月に明治学院 法学部に入学し、その後、中退しています。
高校からストレートで法学部に入学されているので、とても頭が良い方なんですね。
大学在学中にテロ事件に関与
桐島聡さんは、明治学院大学在学中に、黒川芳正・宇賀神寿一と出会って、
東アジア反日武装戦線「さそり」班として参加、連続企業爆破事件の複数のテロ事件に関与しました。
1975年4月18日・爆弾を仕掛けた
東京の銀座の韓国産業経済研究所の入り口に手製の時限信管付爆弾を仕掛け翌日に爆発させました。
それ以外にも、数々の爆破事件に関与しました。
1975年5月19日・東アジア反日武装戦線の主要メンバー7人逮捕
主要メンバー7人が逮捕されたのを契機に逃亡しました。
東アジア反日武装戦線のメンバーの中で、一度も逮捕されていない唯一のメンバーでした。
50年間の逃亡生活
偽名「内田洋」(うちだ ひろ)で50年間もの間、逃亡生活を続けていました。
桐島聡さんが逃亡生活期間、通っていた飲食店の店員によると、
大体20年前から、一人でお店に通っていて、音楽はロックが好きだったそうです。
通称「うっちー」と呼ばれていたそう。
36年来の友人の証言によると、
「うーやん」と呼んでいた。
10年くらい前までは、月に2,3度会っていて、最後に会ったのは1年前。
桐島聡さんの生い立ちについては、このようにきかされていたそうです。
- 出身は岡山で魚屋
- 高卒
- 高校をでて友達が大学に入ったから、その友達にくっついて東京に来た
- 友達のとこに下宿して転がりこんでいた
桐島聡さんの振る舞いについては
- 臆病な感じ
- おとなしい
- お酒を飲むと陽気になる、鼻歌を歌ったり
- 保険証もないから歯が全然なかった
死亡する5日前に名乗り出た
桐島聡さんが自分が桐島聡と名乗り出たときは、末期の胃がんで入院していました。
最後の時は桐島聡で終わりたい、と発言したそうです。
警視庁公安部の任意の聴取に対しては、
「事件について後悔している」の趣旨の話をしていたそうです。
桐島聡さんは、「内田洋」の名で約40年にわたって神奈川県藤沢市で生活し、
しないの工務店で長く住み込みではたらいていたことが分かっています。
働きながらの逃亡生活では「誰の支援も受けず、逃亡していた」と
話したそうです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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